Vol.608 外交ジャーナリスト/作家 手嶋龍一(『われらが背きし者』)

OKWAVE Stars Vol.608は映画『われらが背きし者』(公開中)について外交ジャーナリストの手嶋龍一さんに特別解説をいただきました。

Q 『われらが背きし者』をご覧になっていかがだったでしょうか。

A『われらが背きし者』手嶋龍一なかなか見ごたえのある作品でした。ジョン・ル・カレ原作の映画は、ストーリーが時に難解なのですが、この作品はプロットが比較的分かりやすかったと思います。ジョン・ル・カレの原作が、難解な理由は三つ。「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」を例にお話ししましょう。かの「世紀の二重スパイ」キム・フィルビー。イギリス秘密情報部(MI6)の最高幹部だったこの人物のモスクワ亡命事件に触発して書かれた記念碑的作品です。錯綜したダブル・エージェントの世界を描いているのですから、全体像を理解するのがまず難しい。二重スパイは誰か。事件の核心に迫るまで、伏線が延々と続くのです。読者へのサービス精神など感じられません(笑)。加えて物語の背景になっているディティールをこと細かく書き込んでいく。そこで暮らすイギリス人ならともかく、日本の読者には感情移入するのに壁があるのです。伏線とディティール、このふたつを押さえていないと、物語がぱっと展開した時に面白みは味わえません。さらにル・カレの文体が難解で、一つの英文の中に現在形、過去形、未来系が時に混在しています。それをこなれた日本語に翻訳したり、映像化したりしなければいけません。ああ、ため息が出てしまう(笑)。だから、ル・カレ自身が映画のシナリオを手がけることがある。そこで『われらが背きし者』を見てみると、筋立てはスッキリしていて、分かり易い。やればできるじゃないか、と思ってしまいます(笑)。また、主人公がプロフェッショナルのスパイではないため、観ている者が作品にすっと入り込み、思わず共感してしまう。ル・カレ原作の映画では、稀な、そう、かなりのお薦め作品ですよ。

Q ストーリーについてのご解説をお願いします。

A『われらが背きし者』手嶋龍一この映画では、ロシアのマフィア組織が登場します。ロシア・マフィアと対峙しているのがイギリスのMI6・イギリス秘密情報部です。国内に潜入してくるスパイを監視するのはMI5・国家保安部。これに対して、MI6は海外に要員を派遣し、国家の安全に関わる情報を入手する機関です。映画の主人公は、図らずもヴァカンスで知り合った人物から頼まれてこのMI6に関わりをもつことになってしまう。ロシアのマフィア組織は人身売買や麻薬などに手を染めており、設けた資金をマネー・ロンダリングして、懐を肥やしていく。原作ではカリブ海のリゾート地ですが、モロッコが舞台となっています。ユアン・マクレガー演じる主人公ペリーとナオミ・ハリス演じる妻のゲイル、ふたりともスパイやマフィアとは無縁な暮らしをしている知識人なのですが、ロシア・マフィアで組織を離れて亡命を希望するディマと関わりを持ってしまう。ディマのイギリス亡命を持ちかけたMI6、その担当者がヘクターです。一般の市民がスパイ事件に巻き込まれる作品は、ル・カレ原作の『ロシア・ハウス』もそうです。スパイのプロフェッショナルではないので、普通の市民にも感情移入をしやすくなる。MI6という情報組織はイギリス外務省の管轄下にあります。外務省の担当閣僚のもとで、下院議員が統括する形がとられています。この映画ではMI6を支配下に置く政治家が影のように蠢いています。こうした構図を頭に入れてこの映画を観ると十倍楽しめますよ。

Q 一般人がスパイやマフィアに巻き込まれるようなことは現実に起こり得るのでしょうか。

A手嶋龍一もちろん、ありますよ。知らずに、機密文書や麻薬の運び屋にされたりすることはそれほど珍しくありません。スパイ組織やマフィアの側からすると、正体を知られずに目的を果たすことができます。本作でもご普通の夫妻が事件に巻き込まれるのですから、観客はつい物語に引き込まれてしまいます。主人公はじつに魅力的な夫妻なのですが、ふたりは人生への考え方も微妙に異なっており、ふたりの心理的な葛藤も作品に緊張感を与えています。国家や組織の意思に縛られていないため、人としてどんな決断をすべきか、思い悩むのですから、ますますふたりにのめり込んでしまいます。ペリーは大学で詩を教えているのですが、現状に満足できず、新たな転身を図りたいと考えています。妻のゲイルも法廷弁護士をつとめるエリートなのですが、「君も知らない人々を弁護しているじゃないか」と夫に言われて、それまでの生き方に葛藤します。

Q ジョン・ル・カレ作品そのものの魅力はどんなところにあるでしょうか。

A『われらが背きし者』手嶋龍一リテラリー・エージェントという言葉があります。一般的には、作家の出版代理人を指すのですが、スパイだった作家という意味をかけています。イギリスのスパイ小説の多くは、かつて諜報組織に身を置いていたのです。「ヒューマン・ファクター」のグレアム・グリーンや「007シリーズ」のイアン・フレミングなどがそうでした。これら情報機関出身のスパイ作家は、MI6など諜報組織の内在論理を知り抜いており、いまも微妙な協力関係にあると言っていい。時には情報当局を批判をしたりもするのですが、組織内に情報源も抱えています。ですから、書かれた作品は、21世紀のいまを巧みに写し取ったリアルなものが多いのです。MI6という組織の“内在的な論理”を踏まえて書かれているのですから当然でしょう。時に個人の幸せや命まで犠牲にして国家の生き残りを優先させる。さらに敵対組織を潰すためには手段を選ばない。こんな冷酷な組織の論理をジョン・ル・カレは隅々まで知り抜いています。物語自体はフィクションで包まれていても、全体として映画を通して表現しているものはきわめてリアルなのです。

Q ジョン・ル・カレについてもっと詳しく知るには?

A手嶋龍一私はこのほど「汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師 -インテリジェンス畸人伝-」をマガジンハウスから出版します。本書では、映画の原作者でもあるジョン・ル・カレと畸人として知られる彼の父親が登場します。現代イギリスを代表する作家の生い立ちは、まさしく奇想天外。スパイ作家になるために過ごしたような少年時代です。ジョン・ル・カレの父親はなんと詐欺師だったのです。若い頃からその手伝いをさせられて、じつに奇怪な人々を身近に見てきたといいます。作家としての豊饒な預金残高(グレアム・グリーン)を存分に蓄えて作家になったのです。

Q手嶋龍一さんからOKWAVEユーザーに質問!

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手嶋龍一 著
ISBN:9784838728961
定価:1,620円(税込)
発売:2016年11月17日(木)

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■Information

『われらが背きし者』

『われらが背きし者』TOHOシネマズ シャンテほか全国公開中

モロッコでの休暇中、イギリス人の大学教授ペリーとその妻ゲイルは、偶然知り合ったロシア・マフィアのディマから、組織のマネー・ローンダリング(資金洗浄)の情報が入ったUSBをMI6(イギリス秘密情報部)に渡して欲しいと懇願される。突然の依頼に戸惑う二人だったが、ディマと家族の命が狙われていると知り、仕方なく引き受ける事に。しかし、その日を切っ掛けに、二人は世界を股に掛けた危険な亡命劇に巻き込まれていく…。

出演:ユアン・マクレガー、ステラン・スカルスガルド、ダミアン・ルイス、ナオミ・ハリス
監督:スザンナ・ホワイト
配給:ファントム・フィルム
公式サイト:http://wareragasomukishimono-movie.jp/

©STUDIOCANAL S.A. 2015


■Profile

手嶋龍一

手嶋龍一NHKの政治部記者として首相官邸、外務省、自民党を担当。ワシントン特派員となり、冷戦の終焉に立ち会う。湾岸戦争では最前線へ。ハーバード大学CFIA・国際問題研究所に招聘される。その後、ドイツのボン支局長を経て、ワシントン支局長を8年間にわたって務める。この間、ブッシュ大統領をはじめ、重要閣僚の単独インタビューを数多くこなした。2001年9.11の同時多発テロ事件に際しては、11日間の昼夜連続の中継放送を担い、冷静で的確な報道で視聴者の支持を得た。2005年NHKから独立し、日本で初めてのインテリジェンス小説「ウルトラ・ダラー」を発表。姉妹篇「スギハラ・ダラー」とあわせて50万部の大ヒットに。ノンフィクション作品には「ブラックスワン降臨」(後に新潮文庫として「宰相のインテリジェンス」)、「インテリジェンスの賢者たち」「たそがれゆく日米同盟-ニッポンFSXを撃て」「外交敗戦-130億ドルは砂に消えた」(いずれも新潮文庫)などがある。佐藤優氏とのインテリジェンス対論三部作「動乱のインテリジェンス」「知の武装~救国のインテリジェンス~」「賢者の戦略~生き残るためのインテリジェンス~」(新潮新書)はベストセラーに。「インテリジェンスの最強テキスト」(東京堂出版)は日本の現状を踏まえたインテリジェンス論の決定版と評されている。現在は、大学や研究機関で外交・安全保障を中心に後進の指導にも積極的に取り組んでいる。
http://www.ryuichiteshima.com/