Vol.812 映画監督 サラ・ドライバー(映画『バスキア、10代最後のとき』)

映画監督/プロヂューサー サラ・ドライバー(映画『バスキア、10代最後のとき』)

OKWAVE Stars Vol.812は映画『バスキア、10代最後のとき』(2018年12月22日公開)サラ・ドライバー監督へのインタビューをお送りします。

Q 2018年はジャン=ミシェル・バスキア没後30年というメモリアルイヤーですが、この映画を作る一番の動機についてお聞かせください。

A映画『バスキア、10代最後のとき』サラ・ドライバー2012年の10月にさかのぼります。1979年から80年にかけてジャン=ミシェル・バスキアと一緒に住んでいたアレクシス・アドラーという女性がいて、彼女はバスキアから預かっていた作品を銀行の貸し金庫に長年しまっていました。その銀行が洪水に見舞われたので、彼女はあわてて全てを引き上げたんです。作品は60点で、その他にスケッチなどが描かれたノート、写真やバスキアがペイントしたアレクシスさんのための洋服もありました。その話を聞かされて見に行きました。写真は150点くらいありました。それはバスキアの人生を語るだけではなく、1970年代末のニューヨークという町を物語るいいきっかけにもなると思いました。

Q 映画の中で語っているアーティストの方々とバスキアの関係についてお聞かせください。

Aサラ・ドライバーこの映画は70年代から80年代の映画の作り方と同じように進めました。あるシーンに登場する人はみな証人です。そんな小さなコミュニティーから作っていきました。私の友人もいれば、この映画のプロジェクトに興味を持って関わってくれた方もいます。歴史というものを扱う上で、いろいろな方が関わってくるのは必然です。中にはバスキアのことを個人的に知ってはいなかったアーティストの方でも、同時代のバスキアの作品を見ているので、その時代の表現と重ねることで、ジャン=ミシェル・バスキアの人生が蜘蛛の巣のように、いろんな人と関わるような作りになりました。

Q サラ監督ご自身やジム・ジャームッシュ監督もバスキアとの出会いを映画の中で語られていますが、監督ご自身が覚えている当時のバスキアの印象をお聞かせください。

Aサラ・ドライバーバスキアのことを「輝くような天性の才能をもつ子ども」と語っている人もいますが、本当に内面から輝きを放っているような人でした。いつも作品を作っていましたし、カリスマ性もありました。とにかく見ていて楽しい人でした。その当時、ジムと私は『パーマネント・バケーション』を作っていましたが、映画の中に出てくるベッドルームでバスキアが寝てることもあって、撮影のときには彼をどかす必要がありました(笑)。彼は自分の家がなくていろんな友人の家を泊まり歩いていました。アレクシスさんもそのひとりです。彼女の先見の明のおかげで私たちは彼の作品と対面することができました。彼女が思い出として留めていた作品のおかげで、当時の彼が感じていたことや環境もよく表れているのかなと思います。
彼の面白いところは、10代の頃にいろいろな作品を作りながら、年上の方を見つけては、いろいろな話を聞いて学んでいたことです。ジムもバスキアよりも7歳ほど年上で彼よりも物事を知っていましたので、そういった人たちから学び、影響を受けていました。美術学校に学生のフリをして入り込んで、そこでもアーティストらと交流して学んでいました。ですので、彼は学習欲求の強い人でもあったと思います。

Q 映画の中で描かれているのは3年ほどの期間ですが、その当時のニューヨークの様子はいかがだったでしょう。

A『バスキア、10代最後のとき』サラ・ドライバーニューヨークは破綻状態で、とても危険な町でした。結果的に、家賃が安いのでアーティストたちが集まっていました。コピー機が出回り始めた時期でもあるので、いろんな作品が生まれました。とにかく「安い」ということが大きかったんです。それがストリートアートというものを生み出すきっかけだったと思います。現代は外でもiPhoneの画面を見ながら歩いていたりしますが、町の情報を見ずに過ごしているとしたら、それは残念な状況でもあると思います。当時の私たちは危険な状況の中で、アンテナを張り巡らして、自分たちがストリートとのコミュニケーションを保つ方法を見つけなければなりませんでした。そんな中で私たちは何でもやってみました。やらずに知ることはできないので、知らないことをとにかくやってみるということが大事だということに気づかされました。今の若者たちは知らないことを恥ずかしがったり、完璧でなければならないと思いこんでいるのかなと思います。私たちは逆にそういう状況を踏まえて学んでいくということを知っていました。

Q 30年以上前の時代を描いたことで再発見したことはありますか。

Aサラ・ドライバージャズ・ミュージシャンのマックス・ローチの当時の映像がこの映画の中に出てきますが、実はその映像は私が撮っていたものです。ファブ・5・フレディの映像もそうです。他にも私がスーパー8カメラで撮影した素材がオフィスに眠っていて、今回それらを発掘してちょっとした驚きがたくさんありました。この映画が完成して、出演していただいたアーティストたちに見せたら、みんな当時のことを忘れていました。どれだけニューヨークがひどい環境だったかということも映画を観てようやく思い出した人がたくさんいました。

Q どんなところに注目してほしいですか。

Aサラ・ドライバー自分たちの声、インスピレーションとなるものを見つけてほしいと思います。それにはコミュニティー(共同体)が大事だということにも気づいてほしいです。インターネットやスマホの中にはない、部屋に集って会話を交わすことが大切な時間なんだということに気づいていただきたいです。現代は今まで以上にいろいろなアイデアを交換すべき時代ですが、むしろそれができていないと感じられます。若い人たちに変化をもたらすことができるのはコミュニティーの存在です。それは時代を超えても変わらないことだと思います。わたしたちは若い頃にベトナム戦争への反戦デモを行いました。そしてベトナム戦争を止めさせたのも高校生や大学生の存在だったと思います。当時と今も状況は変わっていないと思います。みんな変化をもたらすことができるし、それがどんなに小さなコミュニティー、小さな町からであっても、変化をもたらすことができると気づいてほしいです。

Qサラ・ドライバー監督からOKWAVEユーザーに質問!

サラ・ドライバーみなさんにとって、コミュニティーというものはどんな存在ですか。
また、私はパンクミュージックの精神のように何でもやってみるという気概が大切だと思っていますし、皆さんにそんな生き方を提案したいとも思っています。皆さんが今トライしていることや、コミュニティーにどう参加しているのか、聞いてみたいです。自己表現は人間の本質だと思います。自己表現の欲求を皆さんは日々感じているのか、そんなことも聞いてみたいです。

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■Information

『バスキア、10代最後のとき』

『バスキア、10代最後のとき』2018年12月22日(土)よりYEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開

1978年、イースト・ヴィレッジで路上生活をしながら、友人の家でソファで寝ていた18歳の青年がいた。破綻し暴力に溢れた70年代末〜80年代のNYには、バスキアの心を動かし、触発したムーブメントがあった。政治や人種問題、ヒップホップ、パンクロック、ジャズ、ファッション、文学、アート…。それらのすべてが彼をアーティストとして育てていく。名声を得る前のバスキアの生活、NYとその時代、そしてどのように天才アーティストは生まれたのか?没後30年の今、その秘密に迫る。

監督:サラ・ドライバー
キャスト:アレクシス・アドラー、ファブ・5・フレディ、ジム・ジャームッシュ、ケニー・シャーフ、アル・ディアス、リー・キュノネス、ジェームズ・ネアーズ、パトリシア・フィールド

http://www.cetera.co.jp/basquiat/

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■Profile

サラ・ドライバー

映画監督 サラ・ドライバー(『バスキア、10代最後のとき』)1955年12月15日生まれ、アメリカ・ニュージャージー州出身。
監督、プロデューサー、俳優と様々な顔を持ち、映画監督ジム・ジャームッシュのパートナーでもある。1982年、ポール・ボウルズの短編小説「ユー・アー・ノット・アイ」を映画化。映画は長い間行方不明だったが、ポール・ボウルズの所有物の中から発見。2011年ニューヨーク映画祭マスターワークス部門で上映された。初長編映画『スリープウォーク』(86/日本公開は89年)はシネマテーク・フランセーズよりジョルジュ・サドゥール賞を受賞。カンヌ国際映画祭批評家週間25周年のオープニング・ナイトで上映、マンハイム・ハイデルベルグ国際映画祭で特別賞を受賞した。『豚が飛ぶとき』(93)はロカルノ国際映画祭コンペティション部門でプレミア上映された。ジム・ジャームッシュの『パーマネント・バケーション』(80)、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(84)、トム・ウェイツの「イッツ・オールライト・ウィズ・ミー」のMVのプロデューサーを務め、アーロン・ブルックナー監督の『Uncle Howard』(16)のアソシエイト・プロデューサーを務めた。1996〜98年にはニューヨーク大学・大学院にて映画製作を教えていた。