OKWAVE Stars Vol.565は15周年を迎える京都芸術劇場での公演を控えた、日本の舞踏界を牽引されてきた麿赤兒さんならびに笠井叡さん、山田せつ子さんへのインタビューをお送りします。
Q 京都芸術劇場が今年15周年となりますが、春秋座に立たれる印象についてお聞かせください。
A笠井叡東京の文化と京都の文化は今まで良い接点がなかったんです。私が見るところでは東京と京都のダンスはいい意味で対立しているというか、認め合っていないところがありました。京都のダンスの作品はいい意味で反抗的でこだわりがあるんです。春秋座について言えば、山田せつ子さんが教授として来られてから段々と京都の力が増してきたという印象です。その力を止めないで、もうひとつ伸びてほしいと思っています。そういう意味でも自分たちのダンス公演「燃え上がる耳」も、麿赤兒さんの「荒野のリア」も京都を盛り上げていきたいです。
麿赤兒日本の大学で劇場を持っている先駆けですね。誇りを持って益々自信を持ってやってもらいたいです。よそ者を受け入れるという意味では京都はすごいです。新選組とか昔からそういう場所ですから、そういうアートの戦場のようなかたちで賑やかになってきていいですね。
麿赤兒さんへのインタビュー
Q 主演される『荒野のリア』は2014年初演の再演とのことですが、演出の川村毅さんとの接点についてお聞かせください。
A麿赤兒『荒野のリア』初演の時に初めて彼の演出で出演しました。川村さんは演劇の人という印象だったけれど視野が広いところがあるなと。舞踏と演劇ではオーバーラップする部分もありますし、ちょっと違ったリア王像を描きたいという気持ちもありました。川村さんもリア王を僕が演じることについて何か期待があったんだろうと思います。松岡和子さんの訳のシェイクスピアのセリフは言いやすいので、やっていて楽しいですね。
Q 『荒野のリア』の内容についてお聞かせください。第三幕から始まるとのことですが?
A麿赤兒元々の「リア王」戯曲のセリフはそのまま、荒野にさまよい出てからのところから始まります。リア王の頭の中でフラッシュバックする形で、リア王と娘たちとの葛藤の出来事が出てきます。出演者が男性だけなので、リア王の娘たちについては見てのお楽しみです。
Q シェイクスピアの戯曲について思うところはいかがでしょう。
A麿赤兒これまでもやっていないわけではないですが、古い洋物はあまり好きではなかったので(笑)本格的なものは『荒野のリア』が初めてです。最近はシェイクスピアの作品でも新しい解釈でズタズタにするような作品もありますが、それが本場で受けることもあるし、シェイクスピア作品の「人はみな悩むものだ」ということにみんな気づいたということでしょう。日本の城主が悩んでいるのもイギリスの城主が悩んでいるのもそんなに違いはないと(笑)。そういう断面の切り取り方はむしろ日本人の方が優れている面もあると思いますよ。
Q 今回のリア王の捉え方について、川村さんの演出も含めお聞かせください。
A麿赤兒リア王が突然狂ってしまうのは僕へのサービスかなと思っています(笑)。急に「女になって踊れ」とかそういう視点の変化があるので面白いと思います。悩みや狂気の範疇が広がったんじゃないかと思いますし、僕の中でも振り幅がより自由になった気がします。急に男から女に変わるようなリア王の多重人格なところなどから、より内面が分かるのではないかと思います。それは示唆に富んでいるのでもっとその面は強調してもよいかなと思っています。ですので演じる上では自然に舞踏家としての表現も出てきます。リア王が言っていることは大仰なことでも、歳相応の弱いおじいさんの面もあっていいと思っています。僕自身、もう暴れ馬のように動くだけではないし、作品が壮大なので気張りたくはなりますが、目いっぱいではなく余裕があった方が観る方にも見えてくるものがあると思います。
Q 2年半振りの再演ということで、今回の抱負をお聞かせください。
A麿赤兒再演だと初演と比べると新鮮ではなくなるところがあります。それをもう一度どうやって息を吹き込むかということなので、かえって再演の方が難しいなと思っています。もちろん新しい役者が入る新鮮さがありますので、感覚を取り戻していこうと思います。
Q セリフの量が非常に多いシェイクスピア作品ですが、舞踏家としてどう身体表現されますか。
A麿赤兒口で喋っていてはダメだろうなと思います。おならが出るくらい腹に力を込めるので(笑)、やはりセリフはそういう内臓感覚にならないと伝わらないと思っています。老人がすらすら喋るのも変なので、むしろつっかえてもいいくらいの気持ちの方がうまくできるだろうなと思っています。芸の良し悪しだけでは分からないものを出したいとも思います。
Q シェイクスピア作品を今の時代に上演する上で、今の時代性のようなものは入り込んでくるのでしょうか。
A麿赤兒シェイクスピアの時代と現代との共通項のようなものはありますし、情念的な意味ではそんなに変わっていません。それこそ古代ギリシアから人の悩みというものは変わらないです。“親殺し”のようなテーマが壮大に見えるか、ひとつの事件に見えるかの見方は違うでしょうけど、やっている人間のドラマはいつの時代も同じです。年老いたリア王の面倒を娘が見たくない、というのは今で言えば高齢者問題なので(笑)、当時そういう問題があったかどうかはともかく情念的には同じですよ。こちらから何か意図はしませんが観る人が自由に今の問題とリンクさせてくれればよいです。娘の立場の人が観に来て老人介護問題を壮大なフィクションとして捉えると、今直面している問題にも豊かな気持ちになれると思います。川村さんは世間から見捨てられた男たちのドラマと言っているそうです。そんな男たちが世間からは憎たらしく見えるリア王を守ろうとするので、何かそういうところからも共通項があるとは思います。